御祭神
    御食津大神
宇迦乃御魂神
大年神
       
  鎮座地
    滋賀県坂田郡米原町朝妻筑摩1987番地
      (境内地 4,806u)
       
  御例祭
    5月3日
       
  御神木
   
     
  御神紋
    変わり稲紋
         
  祭神の御神徳
    御食津大神(みけつのおおかみ)
       食物を主宰する神(宮中においては、天皇の食膳を守る神として神殿にお祀りされています。)
    宇迦乃御魂神(うかのみたまのかみ)
       稲の霊(稲に宿る神秘的な霊をいう。「宇迦」は「うけ」(食物)の古形。ここでは 稲の霊をさします。)
    大年神(おおとしのかみ)
       稲の稔りを司る神(漢字「年」の字義は「稲の稔り」穀物のなかで稲の稔りが一年 かかることから「年」の字が用いられます。)
       
  神社の歴史
     当社の鎮座は孝安天皇(人皇第六代)28年とされています。御祭神は五穀豊穣の神として古代から里人の崇敬篤く、往古は12の末社と別当6ヶ寺、氏子は25邑を数えました。また、筑摩は桓武天皇(人皇第五十代)の御代に内裏大膳職の御厨が置かれた地であり、延久2年廃されるまで御厨の鎮守として尊崇されました。社伝によれば継体天皇(人皇第二六代)は越前から京都に遷幸のとき、社の側に行宮を設け、その際に社殿を再建し神域を定められたとあります。さらに後鳥羽院は正治元年名越の行宮へ御幸のみぎり、当社にご参詣になり神領として当国浅井郡田河荘を寄進されました。神階は文徳天皇(人皇第五五代)仁寿2年従五位下がさずけられ、爾来累進し、後嵯峨天皇(人皇第八八代)の勅願あって寛元3年ついに正一位に叙せられ、併せ神領が寄進されたとあります。このほか源頼朝も神領として伊勢国多気郡丹生郷を寄進され、南北朝期には京極秀綱(伊吹太平城主)が社殿を造営し神領を寄進されるなど、朝野の尊崇をあつめました。降って江戸期には、彦根藩主井伊氏の崇敬を篤くしました。現在の氏子圏はかつての冨永荘に属した筑摩・上多良・中多良・下多良の四か字となっています。
         
  年間主要祭典行事
    祈年祭  2月11日
春の大祭 5月 3日

 祭礼の渡御は四か字によって行われます。この祭は平安時代からの伝統を持つ祭で、 狩衣姿の少女八人が鍋をかぶって行列に加わることから「鍋冠り祭」と呼ばれています。行列には鍋・釜をかぶった少女のほか、鉾・猿田彦・神楽獅子・列太鼓・母衣・神鏡・青竹・先箱・長刀・金棒・楽人・榊・唐櫃・翳羽・御鳳輦・曳山など総勢二百余人が、お旅所から約1km離れた神社まで練り歩きます。(昭和四〇年代までは犂を背にした牛の姿も見られました。)

秋の大祭 11月 3日
新嘗祭  11月23日
    (年によって変更する事があります)
       
  鍋冠祭のいわれ
     筑摩神社の祭神はいずれも食物を司る神々です。神前に作物・魚介類などを供えるとともに、近江鍋と呼ばれ重宝された特産の土鍋を贖物としたことが鍋冠祭の古い姿ではないかと考えられます。
 今の祭儀は後世の付会があってかなり変化があり、その起因についても諸説があります。「女人の不貞を戒める」との説も後世の付会によるものと考えられるが、その起因は詳らかではありません。(鍋冠祭は米原町の無形民俗文化財に指定されています。)
       
  古歌などに詠まれた鍋冠祭
    伊勢物語(百二十段)
 むかし 男 女のまだ世へずと覚えたるが
 人の御もとにしのびてもの聞えてのちほどへて
                よみ人しらず

 近江なる筑摩の祭とくせなむ
   つれなき人の鍋のかず見む

    後拾遺和歌集(雑四)
 御あがもののなべをもちてはべりけるを
 大ばんどころより人のこひはべりければ
 つかはすとてなべにかきつけはべりける
             藤原顕綱朝臣

 おぼつかなつくまの神のためならば
     いくつかなべのかずはいるべき

   
鍋冠祭図(富岡鉄斎)の賛
俊頼朝臣の雑和集に曰く 近江の国つくまの明神と申神おわしまし 其神の御ちかいにて 女の男したる数にしたかい 鍋を作りて其祭の日奉るなり 男あましたる人は見くるしがりて少し奉るなどしつれば 物のあしくてやみなどしてあしければ 数の如くして祈れば直りなんと